始まりは今思い返せば19歳の夏なのかもしれない

私的で個人的な内容です。
長い文章で雑な文章ですがお許しください。
なぜ京都デニムを制作しビジネスやお金儲けではなく
純粋に伝統工芸の技術を広める活動を始める事になったのか
個人的な心境も含めて書いてみました。

私は代々着物の製造するメーカーに産まれた人間でした
そもそも、そのことを知るのは産まれてからずいぶんと時がたってからですが
というのも、親は昭和生まれの裕福な家庭のバブルの時代の人です
その当時呉服屋さんは内情はどうあれかなり周りからは裕福な家庭の一つと見られていたみたいです
私はそんな親の子で産まれたので何不自由なく育ちました、普通に育って幼稚園の時に市の絵画コンテストで市長賞をとったぐらい絵が上手な子でした、絵やモノづくりが好きで
小学校の図工もトップクラスでした中学の時に私学に進学した高校生になり高校の授業の
美術ではあきたらず絵画スクールにまで通い大阪芸大に進学し工芸学科テキスタイルデザインコースに行きました
その当時は芸術にしか興味のない子供だったので親の仕事が何でお父さんお母さんなんの仕事をしているかも知りませんでした
それから大学を二回生になったころ大阪で一人暮らしをしている私の家に姉から電話があり荷物を持って実家に帰るようにとの電話でした。内容はお父さんが倒れたとの事でした
その時が19歳の暑い夏の日だった記憶があります。
なにがなんやらわからず、実家に戻り病院にいきました。そう今でも鮮明に覚えています。

一人暮らしから実家に帰ってきたときにすぐに父の入院いている病院に行きたとき父親が悲しそうな眼で、私に、そして家族に申し訳なさそうな顔つきでだったこと、それから、病院の先生に私と母だけ別室のモニター室に行き先生が父の病は心臓肥大で長くはないとつげられ明日死ぬかもしれない明後日てかもしれないともっても余命三ヶ月ことでした、隣で話を一緒に聞いていた母は涙をこらえられずに泣いていたのを今でもよく覚えています。

母親のあんなに悲しい涙を見たのは産まれて初めての事かもしれないぐらいでした。
その涙は私が高校生の時に父がおじいちゃんが他界して棺桶に花束を入れるときの涙とそれはよく似ていた記憶でした
死の直面の別れとは本当にはかないと思いました、そしてふと思い出しました

おじいちゃんの他界の時に棺桶に入れて火葬場にいく前の日の畳の部屋で線香を絶やさず息のないおじいちゃんが氷で冷やされ
布団で寝ている真横で一晩、私だけが寝ていたの思い出しました、どうも父は施主なので次の日疲れないためにすぐにねて
誰が横に寝るかと話になったとき私が手をあげてみずから寝た記憶が今でも鮮明に覚えています。
隣で死に人が寝てるの姿をみて人の人生のはかなさと人は生きているときに何が残せるのか考えた高校生の記憶がおぼろに思い出されました。そして、人とは人が生きてる間に歩む道とは何なのか。

それから病院の別室を出て母と父の病室に戻ったとき父が、微笑みながら私に一緒に仕事を手伝ってなと言ってくれて、学生生活の幕が下りました。
とはいえ、もちろん学費も払えるわけ無いので大学はお友達に別れを告げること無く退学をし実家に帰りました

それからお祖母ちゃん(おじいちゃんはこの時すでに他界)やら母とおねえちゃんとかで会議のすえ僕が親の仕事の全てを引き継ぐことに、この時初めて親が呉服屋で着物のメーカーであったのを知りました。

そしてそのとき、幼少期にうるおぼえであった着物の展示会があったのを思い出しました。
そういえばよく行事のたびに子供ながら着物を着せられていた記憶があります。
そして、会社に初出勤そしてここからが社会人一年生にして二十歳の始まりでいた。

社会人になり会社の財務状況をおばあちゃんと母からその日聞きビックリ!蓋を開ければ、おじいちゃんの時代から作ってきた数億もの借金の返済が仕事。
20歳そこらの私は数億の重み考えす、数億返済することを引き受けました。
まずは毎月いろんな銀行さんが数百万円の返済を求めて決まった日にちに来らました
そして母親の生活費、おばちゃんの生活費、お父さんの弟さんの子供のなんかわからないお金を渡すことなど毎月何百万もお金を返す20歳の始まりでした、社会を知らずインターネットの情報も無く、その当時友達の合う時間もなく相談できる人もいないのでそれが、ある意味、普通のことだと思っていました。

毎日毎日スーツも着る服も靴も同じで営業は着物を売ってお金に変えて借金を返す。
着物メーカーだったので職人さんこの生地にこんな友禅加工をして自分で図案を書いて渡したりとそれはそれは今思い返せば必死そものでした。
毎日毎日24時間の私の返済の生活でした、もちろん生活は苦しく食事を削り、モノを買わず、文句を言わずひたすら働く
もちろん貧乏になりました、でも毎日余命が決まっている父の顔をみて父が喜ぶ顔が私の生きてる励みでした、なにせ、父が毎朝眼あけてくれて、生きていてくれるだけで幸せでしたから。

自父は分が心筋梗塞で倒れるぐらいまで働き、考え、私を育て大学までに入れてくれた親の暖かさはなんともこんなにを暖かく崇高なものだと、気づきましたし、20歳から数億の借金で始まった人生ですが親の愛や周りの人のやさしさをこんなに早く知ることが出来てある意味良かたと今でも思っています。
若さゆえゆえに、騙され、名刺を燃やされ、水をかけられ、塩をまかれ、社会の厳しさもしりました
毎月の返済は半端無く多いので、桑山商店と今までの会社の別に豊明という会社を創りと二本立てで稼がないと500万円以上の毎月の返済は返せませんでした
個人で豊明とゆう会社創り着物の卸ではなく小売り部門を創り直販して稼ぎました。のちに2004年有限会社豊明になる会社(京都デニム)の母体でなる会社です。

豊明(ほうめい)と会社の名前を考えたのはこの会社に関わる人や知った人が豊(ゆたか)で(明)明るい人生を送って幸せになってほしいからこの名前をつけました。
豊明を着物の小売り部門に桑山商店を製造部門にして二本柱で稼いでいきました、さすがに寝る暇をおしんで働きつづけ胃をいためるまでに神経をとぎすまし使い、なんとか銀行の借金返済も毎月出来るようになりました、数年で半分近くまで返す事ができ、本当に社会の厳しさをしることが出来ました、当時は着物はたくさん売れとビルが建つと言われるぐらいですし、高額利益はスゴいものです、特に私の会社は着物製造の直販だったからできたのだと思います。

しかし、若さゆえにその利益、お金を稼ぐという事に特化しすぎて疑問のを抱くようになりました。
今思い返せばただの正義感かもしれませんが
こんなに素晴らしい職人の手仕事を利益重視の産物にしていいのか?
本当はこの技術は継承されるべきものではないのか?

心の中でお金を稼がないといけない自分と、お金を稼ぐより大切な職人の手仕事の継承はどうしていくのかということに大きな自分自身の疑問と葛藤やらイライラやらなんやらやうまれ始めました、それはそのはず、着物職人と毎日のように会話する事もあり着物の手仕事の何日もかけてつくる日本の伝統の素晴らしさを生で体験し会話しまたそれをお客さんに伝える事をしていたので、そして自分自身の着物をデザインし職人のもと共にモノ作りをしたりしていたので。

その疑問を職人達と会話していると、数万円の加工代が数十万数百万になったりする小売りや問屋があり売れなくなるから高くなり、日常品から文化財になり、着付けを複雑にしたりと職人の同じ疑問を抱いている事実、伝統工芸士の有名な着物の職人さんなども着物は形じゃなく技術であって技術が継承されればそれは日本の着物、そう着る物つまり、着物だと、着物という物にしたのは戦後の西洋文化が到来して一気に西洋化にはしり、日本のファッションを民族衣装として文化財にして洋服を、昔の着るものおきかえたとのでは、本当にそう思いました。
日本の素晴らしい技術はそして本当の心のこもった1点1点作る伝統的技法は着物(文化財、民族衣装)にだけしようされ今の日常には使用されず時間がとまっている、和風、つまに本物風を西洋の今のスピード社会にのっとって転写やプリントなどで安易に制作、悪い事ではないのですが、本物の手仕事は今の生活の中にどこに存在していけるのか、疑問は膨らむばかり、しかし
お金を稼いで親の代々次いできた呉服屋を存続させ生活を守り、借金を返す毎日の中ではこの疑問は本当にただの奇麗ごとでした、そんな事考える暇があれば稼いで借金を銀行に返す、本当にそれが毎日の使命でした、父は余命三ヶ月だったのに私が未熟で助けないと、教えないとと想いか、気力で人口透析をしながらかろうじて生存していました、そして六年近く私を見守り、他界しました。
他界する前は私もある程度、稼げるようになり人も使い会社の規模も大きくなり安心して他界したのか、死ぬ前はたまたま父の顔を見にいきました、そして私の前で朝食のあと一瞬苦しみ目の前で心臓がとまりました、

あの日の事は鮮明に覚えています、父が朝からしんどそうで母が救急車を呼ぼうかと言ったら父が大丈夫と言って救急車呼ばなかったこと、その後一時間後に私が家に行き、起きられないから父を抱いてリビングにいき椅子に座らせ朝食を食べていました。
その日の朝は父は、お前も立派になってきた、とか、お前の好きな事をしたらいいやら言っていたのを覚えています。
冗談で私はいく(他界)には、まだ早いでーなんっていっていた会話をおもいだします。
その後数分のちに眼のまえに父の死を見る事になるとは本当に思わず

朝食の後、紅茶を飲んで椅子に座ったまま体が震え出し目がそして体全体が痙攣し息がなくなりました、ものの1分もみたな時間で
その後椅子から父を担いでソファに寝かせました。
その日から今もあの時に自分が人工呼吸や心肺停止の人を蘇生させる術をしていたら今も父は生きていたかもしれないと、ふとたまに思う事があります。後悔しても悔やんでも人の死はかえってこないことはわかっていますが。
今思えば母はあのとき救急車を呼んでいたらすくてた延命できたこもと後悔していないのか、私は他界した父をみて初めて人の生きる意味を少しわかった気がしました、何とも言えない気持ち、その後救急車をよんで病院に行きなんとか心臓は動いたけど、人工透析をしている身なので意識戻らず数時間後には必ず死ぬと、病院の先生にいわれました、このまま延命治療を続けても苦しむだけ、母と私がやすらかにいかせるか、ちょっとでも長く父はつらいかもしれないが延命をするかの選択、まさに人生でこんなに重い選択はなかったです。
母と相談し延命をやめ、やすらかに他界してもらう事をえらびました。私はその時、人生には様々な選択が常にあり選択の仕方に選択の方法で悩み苦しみ決断ということを学びました。
しかしまさか親の生き死にを数分以内で決断する事になるとは、今でもなんとも言えない気持ちと選択の善し悪しはわかりません。

しかし、父が死ぬ直前に好きな事をして生きてほしと言った一言は実はとても今も重く大切な一言、
借金のために大学を中退させ20歳の息子に数億の借金をさせたことは罪におもっていたのか?
返済という目標しか息子に教えれなかったのか?
当然は私はそんなふううには思っていなかったのですが、しかし父の遺言どうり自分なりに短い間の父との生活と言葉を思い出し、人生の終わりまでになにがの残せて、何が出来るのか考えていきました、自分のためではなく人のためになるような事をしたいと強く思いました。その後自分のみじかな職人や伝統の技を継承する活動する事を考えました。
もちろん産まれる命、消える命の間に何をのこせるか悩み
着物屋をやめてそして桑山商店を廃業し四条の土地等を売却して借金をなくし一から出発しよう。
生きている間に自分ができること、
今まで先代の先祖が商いとしてきた着物の本物の技術、手仕事の想いを継承そして着物という形にこだわらず少しでも多くの人に知ってもらうことをしようと活動を始めようと
それが今の京都デニムなのかもしれません。
かもしれませんは、自分が他界したと時周りが評価して初めてわかるかもと思っているからだと思います。

形が変わろうと技術が継承されればそれもまた伝統工芸であると信じて、伝統工芸は形ではなく我々先祖が長い年月をかけてあみだした技術でありその技術が生活に使用されてこそ本来の技術の役割が光を放つのではないかと思い。